2023年と言うか29歳と言うかこれまでの人生の振り返り(4)19940118(TUE)→20230831(THU)

・私の誕生

1994年1月18日、地元の公立病院で私は生まれた。午前5時15分辺り、母親が1ヵ月以上入院してからの事だった。でも本当の出産予定日は2月14日だったらしい。

ただその頃の私は、生んでくれた母親と目を合わせなかったらしい。おまけに抱っこが嫌いだったと言う。

私が2歳の頃に、以前住んでいた団地から今の場所に引っ越した。念願のマイホームである。

そして特に何も印象的な出来事も無く、家から近い場所の保育園に通い、卒園して、そのまま家から近い小学校に入校した。

正直言ってまあ普通に過ごしていたと思う。よくクラスメイトと喧嘩していたが。落ち着きがない子だと通信簿で書かれていたが。そんなに深い思い出も出来事も無かった。普通に過ごしていた。気がしていた。

・感じ始めた「生きにくさ」

問題は私が中学校に入校してからである。そこからが現在に至るまでの、長く苦しい、地獄の、虚無な時間の始まりだった。

入学した途端から孤立状態になった。誰ともグループを組めず、グループに入ろうとしても拒まれ、常にイジメのターゲットにされていた。毎日どっかの誰かから嫌がらせを受けていた。それも肉体ではなく精神の方で。

地獄だった。女子のあらゆるグループから忌避され、男子のあらゆるグループから暴言や差別用語を大声で連呼された。「(私の名前)菌ごっこ」が私のクラスで流行し、女子グループの中では「罰ゲームとして私に好意を向ける刑」もやってたらしい。

ある日突然、休み時間中に上級生のグループに突然トイレに連れ出され、携帯で写真を撮られ「バラしたらお前の顔写真ばらまくからな」とも脅された。あの時は訳も分からず教室へ逃げ出した。その主犯格はベランダまで追いかけて来たし、顔も殴られた。それでも逃げたが掃除用具入れで追い詰められ、首元にナイフを当てられた。あの時が唯一の「あ、俺殺されるんだ」って思った時だった。

運よく教師が来たので、ソイツは私に腹パンして逃亡した。あれが一番肉体に苦痛が来た瞬間だったと思う。その教師にパニックになりながらも事情を説明し、私は保健室でその日を終えた。

保健室から出て部活で体育館に行ったら、その時だけは男子のグループが"都合よく"駆けつけてくれた。でも私への心配ではなく「あいつナイフ持ってた?w」ぐらいの質問しかしてこなかった。その時の私のグループへの殺意はとてつもなかったと思う。

地獄だった。毎日泣いて、毎日罵倒され、毎日否定された。私の母校にいい思い出どころか、「人権すら」存在しなかった。

やはり母親も入学してからの私の異変に気付いていたらしく。カウンセラー室の先生に精神小児科での診断を勧められた。そこで指定された病院に母親と共に行き、診断を受けたのであった。

アスペルガー症候群

そこで出された診断結果は「アスペルガー症候群(今のADHD)」だった。私は精神障碍者だったのだ。

でもその事を母親から聞いたのは私がいつも通り家に帰ってきた時だった。母親いわく、説明の際に「Yahooで検索して出て来た説明を私にみせていた」との事。でも私はよく覚えていない。

ただ、受け入れるも何も、まず「理解する事が出来なかった」。頭の処理が追い付かなかった。

・何も変わらない

だからと言って、その日を境に私を取り巻く環境は変わらなかった。寧ろ悪化した。

差別用語を使っていた連中は「障害」と「アスペ」の2つを使いだし、女子グループからの忌避はより激しくなった。給食の時間も机を合わせる事すら許されず。私の下校時は私のはるか後ろにクラスメイトが歩いていた。私の尊厳はここで奪われたのだ。

あの頃はよく休憩時間に3階の窓から地面を眺めていた。でもそこから飛び降りる気持ちは無かった。そしてグループの1人が「死にたいならさっさと飛べよw」と罵倒された。死ねるなら死にたかっただろうな。

でも結局、私は不登校になる事は無かった。休む事も何故か考えていなかった。それで私の中学生活は終わった。

・否定されたくない

高校生活は中学よりずっとマシだった。前のグループの生き残り?はいたが、そいつ等が手を出す事はかなり減った。その代わり新しい連中が私に手を出してきた。

それでも高校生活はまだマシだったと思う。帰宅部なので放課後はよく地元のゲームセンターに行った。音楽ゲームに没頭した。それは楽しかったと思う。

そのまま母校と何かしらの関連がある専門学校にも行った。まああそこで学んだ事は今現在何も活かせてはいないが。まあ結局孤立状態だったけど、たったの2年だし中学よりはずっとマシだった。

ただ、この頃からまた新しい「生きにくさ」を感じ始めた。人に否定されるのを何よりも恐れていたのだ。

中学で私はクラスメイトから人権も尊厳も全否定された。それから身を守るには、ひたすら保身するしかなかった。例えそれが親族や両親だったとしても。

怒られたくなかった。否定されたくなかった。ただひたすら怖かった。だから私は保身の為に、嘘や詭弁を使い倒した。もう怖い思いを、嫌な経験を、したくなかったのだ。

・「変わりたい、変われない、変わる資格がない」

専門学校を卒業し20代になった私は、右も左も分からないまま色々な事をした。

2度転職した。この頃から使い始めたSNSで人と繋がり始めた。その代わり嫌と言うほど失敗経験をした。精神は未熟のままだった。この頃から意識し始めたのが「私、変わりたい」という思いだった。

でも何も出来なかった。失敗への恐怖、未知なるものへの警戒心、そして自分自身で「何か成し遂げた」と言う実績が皆無だった事。寧ろ何もしなかった。

退屈だった。でもそれなりに働いてはいた。その代わり問題も色々起こしてた。

窮屈だった。自分で何か起こす事もしなかった癖に。常に自分の安全しか考えていなかった癖に。

惨めだった。同年代の人とSNS内外で比較され、何か成し遂げた他人と自分を毎回比較して。

結局、私は、何も出来なかった。何もしなかった。私はそう言う人間だったのだ。

・2023年8月31日㈭、健康診断の会場に繋がる廊下にて

こうして時は流れ続け、2023年8月31日の木曜日になった。あの日もとにかく外は暑かった。

空調が効いた長い廊下を歩きながら、私は当時勤めていた会社での「最後の」健康診断の会場へと向かっていた。これを逃すと今年はもう実施しないとの事だったので、その時間だけ作業場を離れていた。

2023年はまあ結構楽しいイベントがあった。1月中にさいたまスーパーアリーナに母親と行って今話題のアーティストのライブに参加し、その2週間後には両親と私の3人で北海道の道南地方へ2泊3日の旅行をした。

5月には二度目の同人イベントへの参加もした。8月には私の愛車(赤のハスラー)で3人で金沢まで行った。ただその時、金沢市内で私は熱中症になって救急車を呼ばれる寸前までなってしまった。結局回復したけど。でもまあ楽しかった。

だが、29歳になっても、20代最後になっても、私自身への変化は何も無かった。当たり前だ。人並に苦労もしてないし、親に言われた事をその通りにやっただけだし、自分の意志で変わりたいと強く願える事も無かった。まあこのまま働いて金を稼いだら次の合同誌を作る予定だし、いいと思った。9月中旬で契約更新だろうし、引き続き頑張ろう。

それどころか身体にも変化が出ていた。今年の4月辺りから何故か体重が落ち始めた。なんなら今現在も落ちている。105kgあった体重が今や80kgまでいけそうになっている。

健康診断でこれまでいい結果を出した事は無かった。だから今回は自信がある。結果が出たらTwitterで自慢してやろう。そう思いながら私は健康診断の会場へと向かったのであった。

 

これが私の「生まれてから今年の夏まで」の全てです。要は「何も出来ない、変われない駄目な人間」という自覚がこの時点までありました。

 

と言う事でこの話は終わりです。正直に書きました。結局印象が薄い所は一部省略したとして。

次回の更新内容は「これまでの人生の纏め」です。2023年8月31日㈭から2023年12月22日㈮(ブログ更新現在)の分も踏まえて、これから「ここからどうやって今の私が形成されたのか?」の答え合わせをしますよ。

結論を出すまでに本当に時間が掛かりました。やっと見つけました。それを書きます。お楽しみに!

neonでした!